以德服人・・人の心は、力ではなく温かさで動く

 
「以徳服人」とは、徳の力で人を納得させ、心から従ってもらうという意味の言葉である。

孟子が説いたこの考え方は、力で押さえつける「以力服人」とはまったく異なる。人は、命令では動かない。心が動いたときにこそ、本当の力が生まれる――私はこれまでの職場で、そのことを何度も思い知らされてきた。


現役時代、社用車の運転手さんから聞いた話がある。創業者は後部座席に座っていても背筋を伸ばし、静かに書類や英字新聞を読んでいたという。 急ぎの運転をお願いした日でも、降りる際には必ず「ありがとう」と声をかけてくれたそうだ。その一言が、運転手さんにとってはどれほど励みになったか。「この人のためなら頑張りたい」――そんな気持ちが自然と湧いてくるような、品格のある方だったのだろう。

しかし、別の社長はまったく違った。車内ではだらしなく座り、急いで送り届けても当然のような顔をしている。運転手さんは「やりがいがなくなる」とこぼしていた。立場は同じ“社長”でも、周囲の心の動きはこんなにも違うのかと、私は深く考えさせられた。

神奈川の事業所に転勤したとき、F専務の姿勢にも心を打たれた。毎日事業場を歩き回り、3Kと呼ばれる厳しい環境で働く従業員に「暑いのにご苦労様やね」と声をかけていた。偉ぶる様子は一切なく、ただ自然に、相手を思いやる言葉をかける。その姿は、まるで夏の暑さの中にふっと吹く涼しい風のようだった。
当時の工場は冷房が十分に行き届かず、従業員は「夏は痩せるほど暑い」と口々に言っていた。設備管理部長に改善を求めても「契約電力の問題で難しい」と取り合ってもらえない。そこで私は、せめて出退勤時だけでも快適に過ごしてもらえるよう、ロッカールームに冷暖房を導入した。
設備管理の部屋は冷暖房完備だっただけに、現場への配慮の欠如が残念でならなかった。働く環境が悪ければ、製品への不満にもつながる――そんな不安すら覚えた。


大阪本社に戻ると、社長はA氏に交代していた。業績改善のために招かれた厳しい方だったが、立場の弱い人への接し方は驚くほど丁寧だった。    毎朝守衛室に立ち寄り、「一昼夜ご苦労さま、特に異常はありませんでしたか」と声をかける。社用車の運転手にも横柄な態度は一切ない。
ある日、決裁をお願いに伺ったとき、私が緊張しているのを見て、A社長は静かに言った。
「児玉くん、偉いのは“社長という人”ではなく、“社長という役目”なんだよ。役職を勘違いして部下を粗末に扱う者がいるが、それは正さなければならない。」
その言葉は、今でも私の胸の奥に温かく残っている。
上位職には厳しく、しかし陰で支える従業員には深い思いやりを向ける――その姿はまさに「以徳服人」を体現していた。

徳で人を動かすことは簡単ではない。けれど、相手を思う心は、必ずどこかで伝わる。
私もその気持ちだけは、これからも大切にしていきたいと思っている。

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